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どんぺり
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♪♪気ままに散策 。。。潮風にそよがれながら彡
島々の人々・生活・景観・祭り・伝統工芸などを見聞する。
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◎ 沖縄を散策する (44)

2009/03/14 01:34
〜 気ままに歩く 沖縄 〜
タイトル
    ( 画像; 宮古上布 )
宮古上布
【 沖縄の工芸 】
『 染織物 - 宮古上布 』 をご紹介しましょう。

宮古諸島
宮古諸島は8つの有人島から成っている。
・宮古島 ・池間島 ・大神島 ・来間島 ・伊良部島
・下地島 ・多良間島 ・水納島
その中で宮古島が諸島管区の中心となっている。
宮古島
宮古島(面積;159.22ku人口;48.065人余)は、
沖縄本島(那覇市)の南西方約290km、石垣島の東北東約133kmの距離に位置する。
≪宮古島市≫
宮古島は従来、平良市、城辺町、下地町、上野村の行政区分にあったが、近場の伊良部町(伊良部島、下地島)と平成17年10月に合併して新政;宮古島市(人口;54.250人余)となった。

基幹産業は農水産業・畜産業が主である。
近年では観光業への取り組みが顕著である。
島々の海岸沿いに帯びる真白い砂のビーチは訪れる人々の心を解してくれる。

主要施策は【スポーツアイランド宮古島】の構築を推進しています。
毎年4月に開催される「全日本トライアスロン宮古島大会」は感動のスポーツイベントである。
14時間以内で、スイム 3km ⇒バイク 155km ⇒ラ ン 42.195kmを競うスポーツはアイアンマンだけではなく近年ではアイアンレディが続出しています。
参加定員は 1,500名程である。

また、プロ野球オリックス・バファローズの1次キャンプ地としても知られている。その他各種スポーツ団体の合宿等が行われています。

宮古上布の起源
古書によれば宮古諸島の人々は14世紀頃から、色染めの装をしていたと記されてあると云われるが、宮古上布の起源は定かではない。

1583年、進貢船を難破から救った男の功績が琉球王朝に称えられて首里王府に招待された。
その際に、妻が手織りの反物を貢上物として持参させた。 その品の素晴らしさに王府が賞賛した。

王家はその反織を御用布に指定して織り続けることを推奨した。 それが宮古上布と称されるようになったとの言い伝えがある。

宮古上布
手績みの上質な苧麻糸で織った紺絣織物である。
甘藷で作った糊をつけ、砧で打ってロウを引いたような光沢ができることが特徴。

刈り取られた苧麻の茎の表皮を小刀でしごいてはぎ取り、繊維を取り出す。
良質の苧麻は、繊維が細長く張力に強い。
苧麻糸を手績みによってさらに爪や指先で細く裂いて糸を績む。

経糸と緯糸を先染めして絣糸にする。
その後から図柄に則って織る。その工程で絣模様の調整が微妙であり繊細さが求められる。
熟練者でも一日20〜30cmしか織れないそうです。

糸績みから仕上げの砧打ちまでの全工程を手作業で行う。
糸作りから始めると一反を仕上げるまでに一年以上かかってしまうそうです。

絣括りには織締めと手括りが用いられる。
染料は琉球藍と蓼藍を混合して染めることで深い紺地に絣の白がより効果的に響きあう。

【参考】
・苧麻(ちょま;方言では[ブー])
  イラクサ科の多年生低木草
・上布(ジョウフ)
  上質の麻糸で織った軽く薄い織物

※砧打ち(きぬたうち)
布を糊づけた後に折りたたみ、木槌でまんべんなく3時間ほど叩きます。
その工程で光沢のある美しい布に仕上がります。

宮古上布の評価
日本四大上布の一つであると云われる。
その昔は「薩摩上布」とも呼ばれた歴史を持つ。
1637年から施行された反物納付は王府の指導のもとに染織技術を高める結果となった。

1609年から琉球王國を支配した薩摩藩は江戸幕府への献上品として宮古上布を採り入れた。
その品の銘を「薩摩上布」にしたとも云われる。
制作工程概要を映像やチャートからごらんください。

※この節次回に続く
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◎沖縄を散策する (43)

2009/03/01 22:52
〜 気ままに歩く 沖縄 〜
タイトル
    ( 画像; 久米島紬 )
久米島紬
【 沖縄の工芸 】
『 染織物 - 久米島紬 』 をご紹介しましょう。

久米島町
久米島町は平成14年4月に旧;具志川村と仲里村が合併して誕生した町です。
久米島本島、奥武島、オーハ島、鳥島、硫黄鳥島の5つの島から成る。 その行政区の主軸である久米島本島(面積;59.11ku人口;9.062人余)は沖縄本島那覇市の西方約100kmの東シナ海に位置する。

緩やかな砂丘海岸が延びる長閑な美しい島である。「日本の渚百選」に選ばれた【イーフビーチ】や全長約8kmにわたって真っ白い砂帯が細長く延びる【ハテの浜】はコバルトグリーンの海原とのコントラストを映じて眺める者の眼を放さない。

基幹産業はサトウキビ栽培、肉用牛育成、葉タバコ栽培、花卉、熱帯果樹など複合化が進んでいる。
漁業ではクルマエビ養殖が盛んである。

特産品としては久米島紬、泡盛、味噌、焼物など。
近年は海洋深層水を利用したミネラル水、塩、化粧品等も開発され県外販路の広がりを見せている。

久米島紬
≪紬織の由来≫
15世紀頃、村の頭役が明(中国)に渡り、養蚕技術を学んで島内に広めたのが始まりと云われる。
17世紀初頭には泥染め技法、桑の栽培や真綿の製造が導入された。
織技法と洗練された品質の高さが好評となり王府からの注文が増えた。王府からの織物発注書と御絵図に基づいた厳密な技術が維持された。
貴族用、士族用や貢納用の反物として王家御用紬としての位置を築いた。

≪反物税制≫
1609年から薩摩藩の支配下になった琉球王府は財政難に陥った事から久米島、宮古、八重山諸島の島民に対して人頭税制度を施行(1637年)した。
課税対象者は15歳から50歳までの男女全てに賦課された。 農民は穀税のために酷使される状態であった。なお、1659年からは穀納の他に反物納付が課される事になった。
この租税は島の女性達の殆どを織物業に携わらせるとともに一層の過重負担を強いる事になった。
税制は1903年(明治36)までの約267年間続いた。

≪織技法の指導≫
織技法の指導には王府から職人を各島に派遣して当たらせた。 図柄は王府から提示された御絵図に基づいた厳しい指導のもとに織られた。 参照→御絵図
今なお精巧で端正なる久米島紬と云われる由は王家御用紬としての規格を厳守し、技術の修練に邁進してきた事が高品質の作品を生み出す要因ともなっていると云われる。

≪人頭税制廃止後の紬織≫
1903年に人頭税制が廃止された。
島民達にとっては紬織業が自らの利益の為に製作され親から子へと継承される機会創出になった。
その技法は王府時代からの伝統を保ち、製法は手作業に拠った。

≪紬織作業の現況≫
模様選定、染付け(草木染めと泥染め)、織の工程を一人で行う。
原料の糸は島内の養蚕農家によって生産され、染料は全て島内自生品を使い、泥染めなども島内で行っている。久米島の自然の恵みを最大限に活かしている。
主な染料はグール、ティカチ、クルボー、ユウナなど
泥染めに用いる泥は島内の沼で採れる。

繭から真綿を作り、手に水を付けて湿らせながら糸を紡いでいく。また、織り上がった布は砧打ちをすることで光沢がでて、布をしなやかな柔らかい風合いにする。

植物染料で下染めし、鉄分を含む泥で何日も重ねて染め上げて黒褐色で深みのある久米島紬独特の色合いを出している。
近年では若草色や黄色などの色合い物が製作されるようになった。
【参考;染料植物】
・グール
紅露。赤系染料として用いられる植物
・ティカチ
車輪梅。茶褐色染料として用いられる植物
・クルボー
ホルトノキ。黄色染料として用いられる植物
・ユウナ
オオハマボウ。灰色系染料として用いられる植物

★染めも括りもデザインも全ての工程を自らが行う。
仕上げの砧打ちも、その専門の職人はいない。

久米島紬の評価
全国約200種の紬織物の中で最も古い歴史を持ち「紬のルーツ」とも云われている。
日本の紬は久米島が発祥の地であり、それが沖縄本島、奄美を経て本土へ伝えられ、大島紬、久留米絣などの基となったと云われる。

2004年(平成16)、伝承製作技術が国の重要無形文化財に指定された。
久米島紬保持団体も重要無形文化財の保持団体に認定された。
制作工程概要を映像やチャートからごらんください。

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◎沖縄を散策する (42)

2009/02/18 20:42
〜 気ままに歩く 沖縄 〜
タイトル
    ( 画像; 首里花織 )
首里花織
【 沖縄の工芸 】
『 染織物 - 首里織 』 をご紹介しましょう。

首里は琉球王朝時代の城下町であった。
王府に庇護された染織物、漆塗や音楽・舞踊などの職人・芸人達が、それぞれの職務に精進する居所でもあった。

首里織は
その城下町の工房から生まれた。
南方から伝えられた絣技術と中国から伝えられた紋織の技術を採り入れて、琉球独自の特性を有する工芸として造作された。
当初は貴族や士族の女性達によって織られていた。
後になって、その裾野が広まっていった。

王族や貴族用のみに許された色、紋様、織技法があったと云われる。
藍染の白や紺の絣は庶民着用が許され、色彩豊かな絣や紋織は王族や貴族用とされていた。
色柄は王府から提示される【御絵図】に基づいて造作された。

首里織には
花倉織/道頓織/花織/絽織/手縞/綾の中/総絣(ムルドゥッチリ)などの織技法がある。
それらを総称して「首里織」と呼んでいる。
首里織は色柄と技法の多さも特徴である。

その中でも
花倉織と道屯織は王室と貴族用のみに許された織りで、首里だけに存在する技法と云われる。

〓首里織の種類〓
≪花倉織≫
花織と絽織の技法を併せた織物で最高位の織物。
最も格式の高い織物で、王妃や王女が着用した夏の衣である。
≪道頓織≫
緯糸間隔を詰めて経糸を浮かし経縞の様に交互に織る。平織地の中に部分的に糸の密度を濃くして経糸を浮かす両面使用の紋織。
宮廷の衣装や王府の官衣として着用された。
≪花 織≫
経浮花織、緯浮花織、両面浮花織、手花織の4つの技法がある。
≪絽 織≫ 
経糸をねじって緯糸を織込み、網目の様に仕上げる。
≪手 縞≫
大胆な格子の間に絣模様を織込んだ柄のこと。
≪綾の中≫  
綾とは縞のことで、縞の中に絣を織込んだ柄を指す。
≪総 絣≫
諸取切(ムルドゥッチリ)とも呼ぶ。
「崩れ格子」と称される代表的な絣柄。

他にもミンサー/煮綛芭蕉布などがある。
首里織は色・柄ともに格調高く洗練された多種類の染織物である。

去る第二次大戦で資料の殆どが焼失されたが、関係者のご尽力で復興を遂げて、現在では、織職人達の裾野の広がりに日増しの感がある。

全国的な普及をみせている「かりゆしウェアー」などには首里織の図柄や織技法が採り入れられている。
制作工程概要を映像やチャートからごらんください。

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◎沖縄を散策する (41)

2009/02/11 13:39
〜 気ままに歩く 沖縄 〜
タイトル
    ( 画像; 琉球絣 )
琉球絣
【 沖縄の工芸 】
『 染織物 - 琉球絣 』 をご紹介しましょう。

沖縄の染織技法は、【 平織 】 と 【 紋織 】 に大きく分類されます。 参照; [沖縄織物の分類図]

≪平織≫ーヒラオリ
たて糸とよこ糸を一本置きに交わらせる織り方。
たて糸、よこ糸の柄になる部分をそれぞれ糸で固く絞って染色し、機にかけると図柄が織り出される。
例類 】 芭蕉布、琉球絣、久米島紬、宮古上布、八重山上布、八重山ミンサー、与那国ガンヌブーなど。

≪紋織≫ーモンオリ
浮かせ織のこと。浮糸が花を散らしたように美しいところから、広くは「花織」とも呼ばれている。
例類 】 首里道屯織、読谷山花織、首里花織、与那国花織、南風原花織など。

≪琉球絣≫
平織で施される。部分的に染めた織り糸を用いて、所々かすったような模様を織り出した織物。
絣括には、琉球独特の手括りがある。
絵図を基に墨付けして種糸を作る絵図法、摺り込みと織り締めの技法がある。
染料には琉球藍、福木、スオウ等が用いられる。
沖縄の絣(かすり)を総称して「琉球絣」と呼んでいる。

≪絣織の起源≫
絣織は王國の海外交易時代に伝来したと云われる。
王朝時代に王府士族の着物として製作された。
絣図案は王府から「御絵図」が提示された。
王府が擁護する職人達がその図案に基づいて織られた。 
参照;[絣の図案]
完成度の高い創作品が九州へと伝えられ、日本全国の織物に影響を与えたと云われる。

≪染織と人頭税≫
1609年から薩摩藩の支配下になった琉球王府は人頭税制度の中に反物納付を義務付けした。
1637年から宮古、八重山諸島や久米島の島民に対し御絵図に忠実な絣織を指導した。
※御絵図(ミエズ)とは・・
琉球王朝時代に王府の職人によって考案されたデザイン画
図は実物大に描かれ、色も織りあがりの色に忠実にぬられ、
長さや幅、糸の本数なども厳密に定められた。
図柄をもとに種糸をとり、絣括りをすればそのまま絣柄が
できるようになっていた。
図柄の大きさ、色で身分の差を区別し、多彩な色彩や柄は
士族以上の着用にしか許されなかった。
後々になって、一般庶民は紺絣を着用できるようになった。
≪南風原町と現代の絣≫
南風原町(面積;10.72ku人口;34.500人余)は
沖縄本島の南部域に位置する。
沖縄で生産される絣織の約90%を生産している。
【かすりの里】と称される代表的な絣織の町である。

図案を基に絵図法を用いて製作されている。
絣柄は「風景、生活用具、星、雲、動物や植物」など
から形を採り入れて約600種類もの模様があると云わ
れている。黒や白地に染められる図柄も豊富にある。

かつては木綿の紺絣が主流であったが、現代では絹を
素材とした色絣が多くなってカラフル化している。
制作工程概要を映像やチャートからごらんください。

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◎沖縄を散策する (40)

2009/01/20 18:01
〜 気ままに歩く 沖縄 〜
タイトル
    ( 画像; 芭蕉布 )
芭蕉布
【 沖縄の工芸 】
『 染織物 - 芭蕉布 』 をご紹介しましょう。

沖縄の伝統工芸の生業を観る場合に、どうしても琉球王府時代の文化醸成を抜きにしては見聞できない。
王朝代に形成された文化が現代に至るも沖縄文化の基盤となっている。
特に染織物に関しては顕著である。

≪王府の文化育成施策≫
王府は15世紀後半から染織物、焼物、舞踊や音楽などの職人芸人の育成に努めた。
その成果あって、外来の技術・技法を吸収しながらもオリジナリティな作品の造作があった。

12代國王;尚永(1573年即位)の治世までの約百余年間は海外交易から得る蓄財が国家基盤の安定を持続させて文化醸成行政にも高揚があった。

≪薩摩藩侵攻と王府行政≫
13代國王;尚寧(1589年即位)の治世になって王國体制に大きな変化があった。
1609年、薩摩藩は軍隊を引き連れて琉球王國に侵攻し占拠した。
以後、琉球國王は薩摩藩の承諾なしで事を進めることが制限された。

財政貧迫状態にあった薩摩藩は幕府と密約して琉球王國侵攻・占拠を図った。
狙いは海外交易からの収益を収奪する事にあった。
※その真実は、後の歴史書等の精査で明らかにされた。

当時の徳川幕府や薩摩藩は中国から交易を拒絶された状態が続いていた。
中国交易の都合上、侵略征服後も琉球王國を体面的に残して交易を継続させた。
以後、その関係が270年間も続けられることになる。

薩摩藩に税を支払わなければならなくなった琉球王府は間もなく財政困窮状態に陥った。

≪人頭税≫
14代国王;尚豊(1621年即位)は宮古・八重山諸島の島民に厳しい人頭税を課した。 (1637年執行)

人頭税の制度は穀物または反物にて納税させられた。村の収穫量・身分・性別・年齢によって税の細則等級が決められるものであった。

課税対象者は宮古・八重山諸島の15歳から50歳までの島民男女全てが対象とされた。

この税制の施行は1637年に始まり1903年(明治36年)までの約267年間も続いた。

特に貧民・病人にとっては余りにも過酷な負担となる重税であった。納税に苦しんだ島民の悲劇を記す史書・史跡が数多く現存する。

≪納付の営み≫
島々の女性達は、糸の原料となる自生の芭蕉や麻(芋麻)を確保するため昼夜厭わず山野を掻き分ける日常が続いた。 また、養蚕などにも取り組んだ。

染織技術・技法の習得は、王府から派遣される技士の指導を受けた。

女性達の労苦が、やがては各島々でオリジナルな作品を生み出すようになった。
その当時に造作された材料・図柄・技法が代々に継承されると伴にグレードアップされた姿が
今日の沖縄の染織物である。
沖縄の島々には特有な染織物が脈々と息づいている。
今日では
亜熱帯の気候風土に恵まれた植物染料の豊かさが優れた多種多彩の製品を生み出して全国的な評価を得るようになった。

≪芭蕉布≫
芭蕉布は、沖縄の織物素材の代表的な一つである。
植物の糸芭蕉からとれる糸で織られる。
芭蕉には実芭蕉(バナナ)、花芭蕉、糸芭蕉の3種類がある。

芭蕉布は糸芭蕉の繊維を使う。
糸芭蕉から原皮が採れるまでには約3年の成熟を待つと云われる。

仕上がった芭蕉布は、とても風通しがよくて、軽くて、
暑い沖縄の気候風土に最適な織物である。
芭蕉布の絣柄の染織は他の絣とは異なり絵図を用いず絣柄にしたがって計算し、絣括りを行う。
制作工程概要を映像やチャートからごらんください。

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◎沖縄を散策する (39)

2009/01/20 00:55
〜 気ままに歩く 沖縄 〜
タイトル
  ( 画像 ; 琉球紅型 )
琉球紅型
【 沖縄の工芸 】
『染織物 - 紅型 』 をご紹介しましょう。

沖縄の代表的な伝統工芸である〓染織物〓生業について綴ります。
15世紀後半から琉球王府は中国、朝鮮や東南アジアなどとの海外交易を繰り広げた。

交易は王府に大きな蓄財をもたらして国家基盤の安寧が続く礎となった。
交易に係わって海外から多くの賓客の来訪があった。
王府内では歓待の宴を催す機会が多くなった。

宴は漸次豪華さを増すようになった。
伴なって、王府は宴に必要とする衣・食・遊の素材整備に取り組まねばならぬ課題に遭遇した。

王府部内に、案件を管理統括する組織を設けた。
そして、國内から衣装、食器類や舞踊・音楽などの造作を志す者を集めて養成に努めた。
その職人芸人達は王府の周りに住まわせて庇護した。

海外交流がある故に、そこでは外来の技術・技法を吸収しながらもオリジナリティな作品の造作に修練した。

試行錯誤を繰り返しながらも成果が着実に出てきた。
独自スタイルを創作した礼装、舞台衣装、舞踊、音楽、楽器、食器、食卓用器などなど。

染織物では代表的作品として紅型がある。
紅型染は13世紀頃から琉球に存在したと云われる。
この度の創作作業で練りあげた作品は、当代の風流
を織り込んでマイナーチェンジされた染織であった。

新作品の紅型は王族や貴族の衣装として染められたと云われる。
紅型の技法には型染、筒描き、藍染などがある。
型染の特徴は型の上から色挿しするのではなくて糊を
のせ防染することにあった。

特に両面染の型置きは高度な技であると云われる。
当時の衣装の殆どが両面染であったと云われる。

地色にフクギなどの天然染料が使用される。
フクギ染料を使用すると黄色の染上げとなる。
〔フクギ〕
科目;ツバキ科/分布;沖縄,台湾,フィリピン
台風の多い沖縄では防風林・防潮林として屋敷周り
や沿道などに植栽されている常緑高木。

当時黄色は高貴な色とされ、黄色染を着用出来るのは王族のみと決まっていた。
その他に赤や白地の作品も制作された。

制作工程概要を映像やチャートからごらんください。

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◎ 沖縄を散策する (38)

2009/01/01 21:31
〜 気ままに歩く 沖縄 〜
タイトル
  ( 画像 ; 知花焼 )
知花焼
【 沖縄の工芸 】
『沖縄の焼物-(3) 』 をご紹介しましょう。

≪第二次世界大戦と窯業界≫
大戦は沖縄本島を大規模な地上戦に巻き込んで街の姿を殆ど壊滅状態にしてしまった。

多くの戦死者が出て、辛うじて戦禍を免れた人々は途方に暮れる日々が続いた。
暫くして、県民は街や産業の再興に取り組み始めた。

壺屋地区の焼物街は不幸中の幸いにして比較的軽微な戦禍を被るに止まった。
戦前から窯場を構えていた陶工達も工房に戻って徐々に商品製作に取り組むようになった。

その最中の1950年に朝鮮戦争が勃発した。
皮肉にも、その影響を受けて沖縄での物流の動きが活発になった。
多くの米軍人・軍属の駐留によって商品需要が高まったのである。

米軍の緊急な基地建設工事は多くの雇用を生んだ。
また、米軍ベースは簡易業務やトラック・トレーラのドライバーなどの業務を県民から採用した。
当時の基地従業員の月収は東京のサラリーマンよりも高額であったと云われる。

米軍人・軍属が本国へ帰還する際のお土産品として沖縄の漆器や焼物が好まれて、その需要が高まった。
外因的誘導による産業の再築が早まるようになった。

窯業界も漸次活気を取り戻すようになった。
再び、他府県で製作された陶磁器が移入・販売されるようになった為、県内陶工達は民芸運動に取り組みながらも陶芸の修練を厭わなかった。

その成果が実って壺屋地区は一大焼物生産地となり「焼物の街」と称されるようになった。

周辺には焼物専門店や窯元直営店が立ち並ぶ賑わいをみせた。 展示会なども開催されるようになった。

≪壺屋焼物地区の賑いと懸案事≫
働き口を求めて、人々が離島や村々から那覇市に集積した。 那覇市はちょっとした住宅建築工事ブームが起り住宅地の拡がりをみせた。
日本で最も人口密度の高い市街地となった。

壺屋窯場区域は那覇市街の真ん中に位置するところから周辺に住宅が密集するようになった。

壺屋焼は「登り窯」で焼成するため、燃料には大量の薪炭が使用された。
その薪窯から吐き出される煙害が1970年代頃から深刻な問題となってきた。

後々那覇市は煙害対策のために薪窯の使用を禁止してガス窯に転換する旨の行政措置を執行した。

窯場から伝統的な技法が失われていく事態に陶工達は戸惑いの境地に立たされた。
※登り窯とは・・
陶磁器等を大量に焼成する為に炉内を各間に仕切り各間に置かれた製品を一定の高温に保って焼成できるよう工夫された窯の形態。
斜面地形を利用して窯を後ろ上がりに設定する。
重力による燃焼炎の対流で製品全体に均等に炎が廻る。
釉薬を使用する場合などには製品の均質化という点で優れている。
≪読谷村へ窯場移転≫
沖縄本島の中部域に在する読谷村は基地返還による広大な土地転用策を模索していた。
対応策として、壷屋の陶工や那覇市に対して窯元誘致の積極的な働きかけを行った。

村の周辺には原料となる良質の陶土が豊富にある。
元来機織物などの工芸が根付いてきた土地柄で文化奨励に積極的な村である。
15世紀初頭。南蛮焼技法導入の頃には代表的な古窯場(喜名窯場)があった「焼物ゆかりの地」である。

陶工達の所在は、ガス窯に転換して壺屋に残る者と薪窯に拘って読谷村へ移転する者があった。

1972年(本土復帰の年)に県内陶工の第一人者である金城次郎初め多くの陶工達が壺屋の地を離れて読谷村に移転する事とあいなった。
移転するに際しては、個々の窯場を構えるのではなくてグループで共同使用する「登り窯」を築造して製作にあたる事にした。 読谷村での陶芸村のはじまりである。

今日では「第二の壺屋焼の故郷」と呼ばれ、読谷村で造られた壺屋焼を「読谷壺屋焼」と呼んでいる。
「読谷やちむんの里」として観光ルートにもなっている。
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